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過去にあったクリスチャンに対する嫌悪感

朝顔の写真

写真…朝顔 240×320サイズ

感じたことをメモ帳に書く感覚で書きました。

今は、クリスチャンに対する嫌悪感はすっかり消えているけど、
嫌悪感を抱いていた事は認めている。率直に言うと「むかつく」。
「証し」「聖書研究」「賛美」「祈り」「交わり」といった言葉を
聞いただけで苛立った。しゃくにさわるので、クリスチャン関連の
ものは一切見聞きしないようにメディアも含めて遮断していた。

ところが、クリスチャンを憎むクリスチャンを嫌っていた。
憎んでどうするの? 本当の愛を持っている人は、嫌いな人を
小馬鹿にするような事はしないのよ。って。
それが私の自己矛盾で、似たような人を見ると苦しくて悲しくなる。

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上記の話とは別に、個人的に実感しているのが、クリスチャン同士で
なければ分かち合えないものがある現実は、認めざるを得ないと
いう事でした。言葉にするのがすごく難しいですが、教義や聖書観や
神観や知識や教派とか、または話が合う価値観が同じとかではなく、
もっともっと深い部分です。

そういう事実は、ノンクリスチャン時代の時も感じていました。
何だか…私が入りきれない何かがある…と。クリスチャン同士の
やり取りを見聞きしていて…疎外感があったり。もちろん私との
やり取りも沢山ありましたが、話が通じないというのはなくて、
ごく普通の会話もしたり談笑したり笑い合ったり喧嘩したり
助け合ったりと一杯一杯ありました。

ですが、どうしても入りきれないものを感じていました。
相手が(友人でもあるクリスチャン)私を入らせないのではなくて、
反対に受け入れようとしていました。でも、努力しても入る事が
出来なかったのでした。(クリスチャンゆえの寂しさと悲しさが
混じったようなものが友人から伝わっていました…。)

それが、信仰で初めて入る事ができました。仲間入りでもなく、
信仰力や信心深さや聖書の理解力は無関係で、クリスチャンが
入らせたものでもなかったのでした。聖書主義や聖書信仰ではなく
聖書を大切にするクリスチャンが見せた聖書が、私の数々の体験を
克明に代弁してくれたのでした。
聖書を否定する限り理解不能なのは当然で…否定すると自動的に
理解が不可能になり、受け入れると理解可能になるメカニズムは
嘘ではなかったと体感しました。

私の聖書の読み方は、一つ一つ読むのではなく、聖書が語る世界を
絵的に捉えるタイプなので、毎日読む事と暗記が大の苦手で…
ええと番号は…??? この福音書は何章まである? 全然覚えられず。
頭の中には浮かんでいても、文字をたどるのがちょっと大変です。

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今の私は、様々な迷いや葛藤があって、礼儀正しいクリスチャンと
顔を合わせるのがしんどいかな…。以前の私だったら、そういった
クリスチャンと普通に話せましたが、今は違っています。深い部分で
一度分かち合っているから、後ろめたい思いのようなものが…。

なんていうか、人間の情って…理屈ではないから、1+1=2と
解決出来ればいいのですが、そうはいかない…。プログラミングの
世界では通用しても、人の心は違う…。自分も相手も同じく…。
わざわざやろうとしてなった訳ではないのに、気がついたら、
そういう形になっている…そんな感じです。

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