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 テーマ・感じた事色々

イメージの惑わし

 2012年04月27日(金曜日)

Photo
240×320ピクセル(26KB)
写真:ナズナの花

16日記の続きです。

「何を考えていたのか」「どういう気持ちだったのか」
など、そういった部分は、目に見えないので、
どうやって、推し量れるのだろうか…。

本人しか分からない…といっても、例えば、
100%正確に事細かに記憶しているのか。
そして、起きた出来事をどう把握しているのか。
本人であっても、限界があるんですよね。

今、こうして、ブログを記していますが、
すごく時間がかかるので、私にとっては
ブログを書いた日は「ブログだけの一日だった」
という風に記憶しています。

しかし、今日の出来事をまとめてみると、
ブログだけではなく、色々な事をやっています。
何時何分に何をしたのか。本当に…
全てを把握しきれず、覚えられません。

なので、「今日はブログに専念していた」と思い込みます。
また、都合の悪い事は忘れちゃう。
都合のいい事だけ覚えちゃう。というのもあったり…。

他にも (自分だけでなく) 沢山ありますが、

本当にあいまいで、あやふやで、危なっかしくて…
記憶力だけでは、あてにならないなあと思うのでした。




それから、受けた印象によって、イメージが
変わって来るんですよね。イメージアップというのが
ありますが、悪く言えば、良い印象を与えようと欺く…。
そういう面もあるので、出来上がったイメージに
惑わされて、物事の本質が見えなくなるというのもあります。

例えば、

『苦労人と聞くと、色々苦労していて、立派な人格の
持ち主という良いイメージがある。ところが、そういう人が、
犯罪を犯したとたんに、今度は「苦労人は犯罪者が多い」
という悪いイメージに塗り替えられ、それが一人歩きする。』

今までは、苦労人は、いいイメージがあったのに、
イメージが悪くなった。と決めつける。
その人を、"一人の人間"として見ようとせず、
自分や他人の描くイメージで、見ようとしてしまいます。

さらに、多彩で豊富で膨大な情報が、毎日のように飽きなく
更新されるものの、印象操作されている物もあるので、
かえって、ますます、諸々のイメージが植えつける"虚像"に
振り回されやすくなっているような気がして来ました。

うまくまとめられませんが、簡単に言うなら、
レッテル思考とタブロイド思考と似たようなものです。

 テーマ・感じた事色々

同一人物であっても

 2012年04月16日(月曜日)

Photo
240×320ピクセル(26KB)
写真:乙女椿の花

人の弱さ…とは具体的に何だろう?
よくよく考えてみると、色々なんですよね。
人によって、捉え方や度合いが違ったりします。

例えば、『ある日、アクシデントが起きた。
一人はあまり動じなかった。もう一人はひどく動揺した。』

そのアクシデントは重大な事なのか、
別に大した事ではないのか。どっちなのか?

ある意味では、その人の受け止め方によって
同じ出来事でも、どんなものであるのかが
変化して来るように思いました。


私のエピソードになりますが、

時間をかけて、全力で制作した物が良しとされず、
何回も何回もやり直しした事は何度もあり、
やり直し自体は、あまり苦痛ではなく、
没にしてしまった時の喪失感もあまりないです。

そのために、他の人が同じような事で
「ああ損した!!」と不満をぶつけるのを見て、
これぐらいで、不満を言うなんて…と感じてしまいます。

その反面、人間関係においては、
はたから見れば、ささいな事であっても、
私にとっては、ものすごく苦痛である事が
多かったりします。相手にとっては大した事がなくても
こっちにとっては、すごく嫌な事だったりします。

矛盾しているように見えますが、
制作した物が没にされても、ショックは小さくて、
人間関係となると、ちょっとこじれただけで、
大きなショックを受けやすいたちです。

一般的には、神経質な所があって人間関係に弱いなら、
制作した物が没にされれば、当然、受けるショックが
大きいだろう。という風に思いがちです。

ところが、実際はそうではなかったりします。

単に、個人の受け止められない事と
受け止められる事があるように、
一人一人についても、世論、データ、
人生経験、分析、心理学といったものでは
分かりかねる部分が少なくないように思うのでした。


裁判のあり方をめぐって考えるものがあって
それについても、日を改めて、追記いたします。

※ブログに掲載している120×132ピクセルの画像も
続けて入れる事になりました。

 テーマ・キリストと共に

23日記の補足2

 2012年03月26日(月曜日)

続いて、23日記の補足です。
アンチテーゼについて、イラストにしました。


3月23日「同じ道を辿る事も…」より引用

> 何かに対するアンチテーゼ(Antithesis)を土台に、
> 築き上げた信仰は、どこかで歪みが生じてしまう。


図解1 図解2 図解3

文字が小さくてごめんなさい。

240×320ピクセル
図解1 図解2 図解3 パソコン向け画像

図解1
否定したくなるような事柄や出来事にぶつかり、
クリスチャンとして、ああならないようにしたい。
同じ事をしないようにしたい。という気持ちが芽生える。

図解2
反骨精神のようなアンチテーゼのカッコ良さに
心を奪われてゆく。十字架(キリストの教え)が
心の外に放り投げられる。それを、サタンが
「いいぞ」とほくそ笑み、Vサイン。
それに気づかないでいる様子。

図解3
アンチテーゼによるアンチテーゼのための
"アンチテーゼ信仰"へ傾倒してゆく様子。
言動の内容…(versus)優劣の比較が目立つ。
「ここは愛がある」「彼らとは違うのだ」
「自分は健全だ」「自分はあそこまでやらない」
「あれは間違いだ」等々。

イメージとしては、こんな感じです。

-------------

アンチテーゼが大きな原因ではないかと思ったのは
二、三年前、プロテスタントの数々の問題について、
論じ合っていたキリスト教の掲示板がきっかけでした。

そのサイトは、参加した事がありませんが、
時々、読ませて頂いていました。
本当に…色々な考え方があって、
ショックを受ける事もしばしば…苦笑。

その中に、「アンチテーゼ」という言葉があったんです。
カトリックに対するアンチテーゼで生まれたプロテスタント。
カトリックが、日ごとに刷新していくのに対して、
プロテスタントは、逆に、悪化しているというものでした。

何故、悪化してしまったのだろうか…と
私も、理由を探していましたが、理由といっても
実に多様なんですよね。決定的なものが分からず。


何年もたった先週、ふと思いました。自分もそうですが、
否定するものの落ち度や欠点を批判する時って、
「してやったり」としたり顔になってしまうんですよね。
心の中が、もうメチャクチャ、天狗になりまくり。

これじゃ、悪化するのは当たり前。
いや、むしろ、悪化してしまえば、
もう一度、新しく立て直すチャンス ! と感じました。

 テーマ・キリストと共に

23日記の補足

 2012年03月25日(日曜日)

23日記の補足です。表現が分かりにくいと思われる
部分に、一目見て分かるように、イラストを入れました。

3月23日「同じ道を辿る事も…」より引用

> つまり、私が反感を抱いていた人たちも、境遇は異なるにせよ
> 実は、同じ道をたどっていたのではないか…と。
> 私に対しても、誰かが反感を抱いていて、
> 同じ事が起きていても、おかしくない。


携帯向けなので、四枚の図解を一枚ずつ並べています。
パソコン向けはこちらの画像をご覧下さい。


図解1 図解2
図解3図解4

240×320ピクセル
図解1 図解2 図解3 図解4


図解1のA(青色)は、アダムの事を指しています。

原罪に始まって、ずっとずっと続いているという意味です。
個人的には、負の連鎖は絶望的ではなくて、むしろ、
磨かれるためにあるのではないか…と思いつつあります。

 テーマ・キリストと共に

同じ道を辿る事も

 2012年03月23日(金曜日)

Photo
240×320ピクセル(20KB)
写真:乙女椿のつぼみ

ここで、過去に、教会や信仰姿勢に対する疑問や
感じた事を記したものを、もう一度、整理してみた。

***その1***
聖職者の考え方や価値観や信仰姿勢に
縛られているとしたら…それらも、
マインドコントロールと似ているのかも知れない。
聖職者に気に入られるようにしなくては。
という心理で動くのであれば、
当然、心の余裕が出来るはずがない。

人情としては、自分が敬愛または尊敬する人に習い、
自分もああいう人になりたいと望む。
それが、盲目的になり、障害になったりする。


***その2***
何かに対するアンチテーゼ(Antithesis)を土台に、
築き上げた信仰は、どこかで歪みが生じてしまう。

分かりやすく言うならば、例えば、社会に対する反発。
あの教派は間違っている。伝統的なものは堅苦しい等々、
"否定するために反対の事をする"というもので、
歪んだ信仰がすっかり出来上がり、自分の言動などが、
神の教えとかけ離れていても、気づけなくなってしまう。

土台を良いもの(キリスト)にすれば、
いつでも立て直す事が出来る。もし土台を違えたら
再び、良い土台に戻る…の繰り返しなのかも。


***その3***
例えば、教会に通い、そこで信仰生活を送っていて、
もし、信仰スタイルが出来上がり、定着している時に、
左も右も分からない新入りから、
「あなたの信仰はおかしいじゃないか」と言われたら…。

考えてしまった。長い間、正しいと信じていたものが
否定されて動揺する訳だから、反論したり、意地悪したり、
何とか、自分が優れている部分を探し出して、
優越感を持とうとしたり…私もそうしたのかも知れない。

むしろ、新入りの方が、定着していない分、傍目八目のごとく
物事の本質が見える事が少なくない。その反面、知れば知るほど、
先輩の偽善や矛盾などを目のあたりにして、
落胆する。失望する。怒りを覚える。悪感情がわき上がる。
良い所もあるのに、全て悪いものに見え、先入観を持ち出す。

そして、ああなりたくないという思いが強まる。皮肉な事に、
そこから、アンチテーゼが生まれて歪み…繰り返される。

つまり、私が反感を抱いていた人たちも、境遇は異なるにせよ
実は、同じ道をたどっていたのではないか…と。
私に対しても、誰かが反感を抱いていて、
同じ事が起きていても、おかしくない。

どうやれば、100%そうならないのか。となると、
"人間"にとっては至難の業で、不可能に近いかも…。
ただ、あの時に、中立的に仲裁出来る人がいれば、
生じた問題について話し合うなど、また違ったと思う。

もしかして、同じ道をたどり、失敗して、
ボロボロになり、身をもって教訓にしながら、
信仰生活を築き上げていくものなんだろうか…と想う最近です。

幸いな事に、人の弱さを理解しているイエス様がいらっしゃるので、
仮に、社会全体が激しく非難して来たとしても、
「何が悪かったのか。どう改善したらいいか。」と、失敗に絶望せずに
素直に取り組むことが出来るので、本当に励みになっています。

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